清武地域(アリビオさくら周辺)の文化遺産について

清武地域は、宮崎平野の南西部に位置し、南部に荒平野をはじめとする鰐塚山地が連なり、鰐塚山を水源とする清武川が町の中心部を東流しています。
「日向国図田帳」(島津家文書)には、八条女院領国富庄一円庄内に「加納二百丁」「今泉三十丁」、弥勒寺領として「船引五十丁」と見えます。15世紀には、伊東氏と島津氏の勢力が拮抗する場となりましたが、次第に伊東氏が勢力を拡大し、文安5年(1448)に伊東祐堯が清武城を奪ってからは、島津氏に対抗する拠点の一つとなりました。近世には、飫肥藩領となり、清武郷(旧清武町、旧田野町、および旧宮崎市南部)を支配するための地頭所が置かれました。

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船引神社

社伝によれば寛治元年(1087)の創建で、当初は正八幡宮、または八幡宮と称したと言われています。現在の社殿は、拝殿は嘉永3年(1850)に、本殿は嘉永6年(1853)に再建されたもので、明治14年(1881)には拝殿が瓦葺となっています。船引神社には、作祈祷神楽と呼ばれる春神楽が伝承されており、春の社日には境内で奉納されています。

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〒889-1604 宮崎県宮崎市清武町船引7074-3
TEL 0985-85-1628

船引神社内の大楠(国天然記念物)

船引神社の境内にあり、祭神八幡大神にちなんで、別名「八幡楠」とも呼ばれています。根周り18m、幹回り13.2m、高さは26mあり、内部は地上8mくらいまでが空洞で、その底は8畳ほどの広さになっています。樹齢は900年を超えるとも言われる県下最大級のクスノキです。

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〒889-1604 宮崎県宮崎市清武町船引7074-3
TEL 0985-85-1628

清武町城址(市史跡)

清武川左岸の丘陵上に立地し、広さは南北380m、東西320mになります。築城の時期ははっきりしませんが、延文6年(1361、北朝年号)の「一色範親感状」(土持文書)には、すでにその名が見えます。清武城は、応永4年(1397)に島津氏によって攻められ、伊東・島津の攻防の端緒ともなりました。文明17年(1485)には、伊東氏の飫肥攻めの際、後詰として入城した伊東祐堯が、この城で没しています。その後も伊東氏の拠点城郭として、伊東48城の一つとなっています。伊東氏の没落後は島津方の城となりますが、天正15年(1587)の豊臣秀吉の九州征伐後、伊東氏が再興されてからは、稲津掃部助などが城主となりましたが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となりました。

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〒889-1605 宮崎県宮崎市清武町加納

安井息軒旧宅(国史跡)

安井息軒が幼名を順作、字を仲平といい寛政11年(1799)中野に生まれました。父滄洲のもと幼いころから学問に励み、のちに遊学し昌平坂学問所や松崎塾などで学問を積みました。28歳で帰郷し、郷校明教堂や藩校振徳堂で教鞭をとりましたが、40歳で江戸私塾三計塾を開き、多くの弟子を育てました。文久2年(1862)には、幕府の儒官となるなど、江戸時代を代表する大儒学者として知られています。きよたけ歴史館の道路を隔てた向かいに、その生家があり、天保2年(1831)に飫肥城下へ転居するまで、安井家が居住していました。敷地は約600坪、約29坪の芽葺平屋建ての家屋で、昭和54年に国の史跡に指定され、現在も公開されています。隣接されている、きよたけ歴史館は、安井息軒に関する資料を中心に、清武郷の歴史や考古資料の展示を行っています。

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※宮崎市きよたけ歴史館
〒889-1605 宮崎県宮崎市清武町加納甲3378-1
TEL 0985-84-0234
開館時間 午前9:00~午後16:30

文化遺産配置マップ